昭和51年06月02日 朝の御理解



 御理解 第62節
 「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」

 わが身の上におかげを受けて、後に人を助けてやれと。わが身の上におかげを受けるということはどういうことか、又どういう範囲を言うのだろう。お取次を願うそして願いが成就した叶うた。まぁそれもやはりおかげであります。わが身の上におかげを受けてということは、私は本当に神様を信じてということだと思うです。神様を信ずるということ、それが私はおかげだと思うです。だからどんな場合であっても狂わない、動かない訳です。というほどに私は神様を信ずるということ。
 中々一辺二辺三辺おかげを頂いたというだけで、確かに神様ちゃござるばい、神様の働きちゃやっぱあるばいと、言う様な程度のものじゃなくて、どう言う様な事があっても動かないところまで、私は神様を信じさせて頂いておるということが、先ずわが身におかげを受けるということはそういうことだ、いやそれもこれもですけれども、最後のところに、俄かに先生にはなれんぞとあるところ。
 だから本当に人から先生とでも言われる程しの、言うならばおかげを受けておるということは、神様を信じて疑わないと言うて、初めて先生と言える言えれる事になるのじゃないでしょうか。ですから俄かにはなれません。もうそれこそ様々なところを通らせて頂いて、神様の間違いなさをいよいよ分からせてもらう。また手前のところでです、本当にお取次を頂いてお願いをして、本当に神様の働き神様のおかげと、言わなければおられない不思議な事じゃと、言う程しのおかげそれもやはりおかげです。
 信心してみかげのあるは惜しいとは言うまじきものぞ、祈りてみかげのない時はこれぞ不思議なる事ぞと。祈りてみかげのないはずはない。祈ってお願いをしておかげにならない時には、それぞ不思議な事であるから、その不思議を自分の心の中に頂き、自分の心の中に感じ、なるほどこう言う様な自分の心の状態であったり、これくらいの修行精神ではおかげが受けられないはずだというものを、自分に感じれれるようになる信心。そういう信心が的確に間違いなく。
 神様をいよいよ信じて疑う事の出来ない程しの、神様を頂く事が出来る、初めていわゆる先生と言われる。いわばおかげが頂けるのじゃないかと思います。お道の信心の独特の言葉の中にあいよかけよと。親にかかり子にかかりとかあいよかけよで立ち行くと。あいよかけよということは、どういうことであろうかと。まぁ相み互い親の事は子が頼む、子の事は親が頼むということでもありましょうけれども、私はあいよかけよというのは、もう実際の働きというのはですね、信じ信じられる仲と言う事だと思うです。
 あいよかけよということは。神を信じそして神から信じられる。親先生を信じ親先生から信じられるということであります。おかげというものはお道の信心でいうおかげというものは、もちろん取次の働きですけれども、取次の働きとはどういうことかというと、いうならばまぁ大きく言えば、金光大神でしょうけれども、先ずは銘々がお取り次ぎを願う先生、その先生のいうならば、保証を頼むようなものだと思うですね。
 お金を借りる時に、自分には信用はないんだけれども、銀行なら銀行に信用のある人は保証に立ちますと、それをさらさらっと金がでるようなもんです。ですからお取り次ぎを頂いておかげを頂くということは、お取り次ぎを願う先生の、いうなら認め印を頂くようなもんです。そこでなら先生がです、願うておるその人の生き方ありかたというものはです、もうこの人はすらごつばっかり言うけん、もうあてにはならんと思うたら、もう判は押されませんよね。
 いやもう本当にあぁいう信心しますこういう信心します、こういう修行も致しますと言うといてね、そしてころっとそれをほこにする人がありますよ。そういう人はやはり金光大神の信用も頂けんと思います。始めの間はねまぁそれこそ信じようが信じまいが、おかげを取次せて頂かねばなりませんから、まぁいうならば願う氏子におかげを授けと仰るのですから、分かろうが分かるまいが、言うならばおかげのお取次をさせて頂きますけれども、段々信心が分かり信心の何たるかが分かってくれば来る程です。
 いうならば確かなものその確かなものが、お互いに見えて来る感じられて来る。あの人は間違いがない、あの人のいうことだからということになってくる時に、私は取次者が判を押す、そういう私はおかげが本当のおかげだと思うです。信じられてね。ありゃもう口先ばかりでもう実がない。昨日もある方があるお願いをされました時に、神様にお取次をさせて頂いたら、判を押してくれというから押してやった事は押してやったけれども、罫紙の欄外に判を私がこうやって押すところを頂いた。
 押してくれというから押してやるけども、さぁそれを例えば銀行に持って行った時ね、こりゃ判ばもういっちょ押し直して貰って来て下さい、こげなところに押したもんじゃいけません。と言われるに違いないですよね。また押しげに来たまた頼みにくる。あぁそうじゃったのち又押してやる。今度は又上の方にどん押しよる。そうして繰り返していくうちにです、成る程押して頂けんはずだというものを、銘々が感じ取らなければいけないです。先生にもどれだけ嘘を言うとるか分からん。
 もうそういうところから先ずいっちょ詫びて、これからはいっちょ嘘は言いませんからと。言う様なものが一つ入ってから、まともなところに判を押してもらうと、いうところになるんではないかと。私はその事を頂いてですね本当思いました。あいよかけよということはそういうことだと思うです。信じ信じられなければ、あいよかけよにはなりませんです。そこでですなら例えてまぁ申しますならば、昨日あるお届けから頂いておる、あのう安東さんのお話しが出ますよね。
 何十年間という間本当にそれこそ不動の信心をして来られた。かというてなら事業の上に発展を遂げたかというとそうではない。遂げるかに見えたがまた逆戻り、かと見えたらまた進むと言った様な、言うなら堂々回りのありかた。そういう中に神様を信じる、で疑わないという働きとか力は段々ついて来た。なぜ本当のおかげにならんのだろうかと。いうならば神様から信じられておられる点ということは、この人は例えばもうどんな事があっても不動だと。
信心をやめる事はしないという事だけは、信じられておるということじゃないでしょうか。だからまぁ言うならば先生というでしょうか、有髪の尼としてです、人が取り次ぎ助けられる程しの、おかげに段々なって来ておられるのである。だからどういう例えば痛い思いをしてもどういういうならば、おかげを真っ逆さまに取り落とすような事があってもです、神様を信じて疑わない。そういうところにです、私は有髪の尼的なですかね、言うならば取次神様が認められる取次者としての。
 御信用を受けておられるのであろうか。けれどもこの人はこの事だけはどんこん当てにはならんと、言った様なものが私ある事を、なら安東さんを中心にしたなら御一家がですね、私はあのう自分というものを反省してみなければならない、ここが出来た時に本当のおかげが頂けるのじゃないかと思うです。神様を信じ疑わないと言う事、どういう目にあっても何十年間それこそ途中でもう信心辞めようかと言う事がない。それはやはり押し進めて今日までみえておると言う事は、それは神様の働きを信じて疑わないから。
 その不動のところにです、なら人が取次れて助かられるような働きも生まれて来る訳です。けれどもこと事業こと商売の事に限っては、まぁだまだ神様の信心というものが出来ておられない。まぁ分かりやすくいうならね、そういう風に私は頂かなければならないと思うんです。安東さんの事だけじゃないです。お互いが堂々回りのおかげしか頂いておらんならです、まぁだなら何十年間信心を続けておる、そこだけは認められておるから、まぁいよいよとかまさかと言う時には、神様がおかげ下さるんだけれども。
 本当の意味においての日勝り、月勝り、代勝りと言った様なおかげにならないとするならばです。ここをいっちょ改まらなければ、神様の本当の御信用が頂けないと、言う様な事になるのじゃないでしょうかね。昨日の御理解でしたね、久富茂雄さんが装束をつけておられるというお知らせを頂いて、はぁやっぱりみんなが繁雄っちゃま、繁雄っちゃまと言うのは一つの神格だと。いうならば先生として認められておるんだと。ならどこを認められておるかと言うと、これは私が信じておるからだと思うんです。
 神様に信じられるということと同等な位にあると思うんです、親先生に信じられるということは。ならまた親先生を信じておるということにおいても、なら久富繁雄さんの場合人後に落ちないと思うんです。いうなら信じ信じられておられる。そこに私あいよかけよの働きというものがいつも生まれてくるんだということです。これはまぁ分かりやすく言うてですよ、それでなら完璧ということでは本当にいうならば、取り次ぎ者としての資格というか、俄に先生にはなれないけれど。
 まぁまぁ先生にまぁするならば一つの合格点を頂いておられる。安東さんの場合でも半分は出来てないけど、半分の面において神を信じて疑わないというところは流石だ。まぁそれだけの事が出来たんだから、人に自分のおかげを受けた事を人に伝えて、人が助かる手立てを作ってあげれる、言うならば有髪な尼的なおかげを受けておられるということになる。だからそういう意味で申しますならばね、安東さんの例をとり、久富茂雄さんの例をとるなら、合楽には沢山おられる事だろうと思いますね。
 けれどもそれでそれなら決して良いということではない、これはそんならば自分自身の内容というものを、もう一辺確かめてみらなければいけません。先生の資格を頂いたから、もうそれで良いということではない限りがないのだ。いや限りのないおかげを頂いていかなければならんのですから。夕べの説教の中にも申しましたように、神様の御信用、御神徳を頂いていくのですから限りがないのです。その御神徳はどういうことかというと、天地が私の為に自由になって下さる、必要なものが必要に応じて頂けれる。
 困るとか難儀ということがない。だからおかげで不安がない。毎日心配のない安心の生活ができる。それこそが御神徳だと、それこそがあの世に持っていけるのだ、それこそがこの世に残しておけるのだ、と言う様な信心を頂かせて頂くためにですね、もう一段のなら信心が求められるわけであります。我が身の上におかげを受けてということは、私は親先生をかく信じておる。また信じておればかくおかげが受けられるということを、なら久富茂雄さんが信じておられるならばです。
 安東さんはです、そりゃどういう中を通ってもです不動です動かない。おかげを受けられんのは私自身の方にあるのであって、言うならば祈りてみかげのない時は、これぞ不思議なることぞという不思議を、今こそ安東さんは感じなさらなければならない時であるね。わが身の上におかげを受けてということは、そう言う様なところ。だからそのわが身の上におかげを受けてということがです、そういう信念が一つの形の上にも現れて来るおかげ。どうぞ私を見て下さい。
 どうぞ私が頂いておるおかげを見て下さい。と言えれるだけのものを私はどうでも、おかげを受けなければいけないと思うのです。ここのところはもう限りなく、極められていかなければならないところです。神信心も手習いも同じこと。一段一段と仰る。もうこの一段一段ということは限りなくということだと言う事なんです。一段一段自分の信心が極められていく。いうならば正確無比とでも申しましょうか、これは正確無比の信心を目指さなければ、正確なおかげは頂かれません。
 けれどもこれはどういうことですか、神様にお願いをするとか、神様にお縋りをするということのその反面にはです、神様の信心の一つの裏付けというものが必要です。こんな修行も致しますから、どうぞおかげを下さいということになって来る。だからこんな修行も致しますからが、いつもあやふやになったり崩れたりするようなことでは、だから正確なおかげになってこないということです。そこのところをお道の信心では、実意丁寧ということになるのじゃないでしょうか。
 実意丁寧又はあいよかけよということが、私共の信心の内容になって来て、しかもそれが一段一段進められていくところからですね、神様からいうならば先生の資格が与えられる。人も助かり自分も助かる、自他共に助かっていく道というものが、開かれて行くおかげに繋がって来るのです。今日はひとつ皆さんお願いをする。それはね親先生にそれが成就するということは、親先生に認め印を押して貰う様なものだと。例えばお金を借りに行くに致しましても、保証人がなからなければお金が借りられないように。
 保証人の判を貰う様なもんだと。ところが押してやる先生がです、その人を信じないとする、この人は嘘ばっかり言うからというて、まぁ判を押してくれというから、仕方なしに押してはやったけれども、違うとこにどん押してやっとる。銀行に持って行ったら、こりゃあんた判の押しところが違うばいとこう言われる。また来にゃならん。そのまた来にゃならんという時にです。はぁこれは自分が日頃いかに神様に真実を持っていないか、親先生に嘘ばっかり言いよるかと言う様な事をです、一つ感じ取らせて頂いて。
 もうここんところが正しく直されていって、それがねもう間違いはないだろうと認められてから初めて、言うなば私が私の名前の下にこう判を押してあげられる。と大坪総一郎が天地の親神様から信じられておる、枠内においてのおかげならば、必ずおかげが受けられるということになりますですね。なら私が限りなくということじゃありませんよ。もう大坪総一郎は億万の金を貸ても良いということじゃないです。それは一万円か一千万円位かも分かりません。
 だから私自身もいよいよ限りなく、神様に御信用頂けれる私に精進しなければならないと同時に、なら皆さんもです、親先生に信じられる信心を頂かなければいけないということです。そんためには自分の内容から、いうならば真実を表に現してという、その真実を本気で追求しなければならない、いわゆる本当な事を追求しなければならないということになります。最近の御理解を頂いておりますとです、それこそ私のようなもんじゃおかげ頂ききるまいと、一生懸命信心なしよるけれども。
 私ごたるもんじゃおかげ頂ききるまいと思うたらおかげはなし。私のようなものでも神様は、この様におかげを下さるということなのですから、例えば私の取次の精神というものは、この人は嘘ばっかり言うけれども、けれどもこの人にとってみれば、やはり嘘も言わなければおられない場合もあるだろうと、と言う様な見方をもってです、そういう私が感じた方をもって、神様にお取次をさせてもらう。まぁ度々この人は嘘ばっかりいいよりますけれどもね、その嘘を言っておるその中にです。
 もうその身そのままどうぞ救い助けて下さいと、言った様な風に最近変わって行っております。だからその事だけにです、ならもうこの頃嘘を言うても親先生がちゃっと、そこんところは具合よう取りなして下さるから、と言ったんではお互いの信心が進みません。だからそことこことがいうならば私自身もです、修行するとは致しませんけれども、けれどもこの人にとってはやはりまぁきつくもあろう、まぁ苦しくもあろう。神様にはみすみす嘘になるということは分かっておるけれども。
 心でお詫びをしながら信心を続けておるということだけで、ならおかげを取り次がせて頂くということで、おかげが頂けるごとなったと致しましてもです、ならお互いも又皆さんに聞いて頂いた様な所を、いよいよ真実を求めて本当な生き方を求めて、信心を正して行くという、そこのところが私はあいよかけよ、お互いが改まり会うて行く、そこから出来てはいないけれども信じる力、言うたら信じられる働きというのは生まれて来ると思うです。この人は前向きではあるというところを認められる訳です。
 私の様なものでも神様はこのようにして、おかげを下さるという内容は、信心とは本心の玉を研くものだ、信心とは日々の改まりが第一だ、お道の信心はもう天地書き付けを芯にする以外にゃないんだと、分からせて頂いてのいうならば、間違いであり嘘であるということにならなければならん。そしていうならばもう一歩でもです、それこそ一段一段でも、天地書き付けの御内容に近付かせてもらう。
 一歩ずつでも本心の玉を研く事に改まる事に、近付かせて頂くというそういう毎日の姿勢をもって。私の様な者でも神様がおかげ下さるという、生き方になって来なければなりません。そこのところがひとつになってそういう生き方を持って、例えばお取り次ぎを願わせて頂くならです、御無理をお願いしよりますけど、この事を持って一段でも前進させて頂きますと、言う様な内容を持ってお取り次ぎを願うならば、今この人は嘘ばっかりいうと言う不信用があっても不信用であってもです。
 その前向きの姿勢に免じてです、神様はおかげを下さろうと言う訳です。それは最近の合楽の信心の傾向であります。動向です。今日は私は一段一段信心が進んで行くということは、先ずわが身におかげを受けるということは、もちろんお取り次を頂いて、お願いをして病気が直った、道が開けたというおかげもさることながら、安東さんの例をとって申しました。久富茂雄さんの例をもって申しましたね。
 親先生を信じておるということには人後におちない。神様を信じるということにおいては、どういう痛い辛い思いに例えば直面致しましても、神様を外す様な事は決して致しませんという、不動のいうならば信心、そういう信心が頂けた時に、わが身におかげを受けたということになるのではないでしょうかね、神様が信じられるおかげを受けたんです。そこで今度は神様から信じられる私になろうと、精進するところを今日はあいよかけよという、または実意丁寧神信心ということをもって、聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。